191年 - 199年
袁紹が冀州を得て公孫瓚と河北を争い、易京攻略によって優位を確立した
逢紀は袁紹に公孫瓚の南下を誘い、韓馥の恐れを利用して冀州を得る策を説いた。
公孫瓚が冀州へ進み、安平で敗れた韓馥は支配の動揺に直面した。
高幹と荀諶らは、公孫瓚と袁紹の圧力を示して韓馥に冀州譲渡を勧めた。
耿武らは冀州の兵糧を根拠に譲渡へ反対し、趙浮と程奐も抗戦を求めた。
韓馥は反対を退けて冀州を袁紹へ譲り、袁紹が冀州牧となった。
袁紹側の周昂が孫堅の陽城拠点を奪い、袁術側の反撃で公孫越が戦死したため、公孫瓚は磐河へ進んだ。
麴義の先登隊と強弩隊が公孫瓚軍を破り、厳綱を討ち取った。
龍河で公孫瓚軍は交戦前に陣形を崩し、敗走した。
公孫瓚を警戒した劉虞は軍を起こしたが敗れ、居庸へ逃れた。
公孫瓚は居庸で劉虞を捕らえ、使者の段訓を脅して劉虞を処刑させた。
鮮于輔らは閻柔を推し、烏丸・鮮卑を招いて潞北で鄒丹を破った。
袁紹が送った麴義と劉和が劉虞旧臣に合流し、公孫瓚は敗戦を重ねて易京へ退いた。
公孫瓚は幾重もの堀と高楼を築いて穀物を蓄え、袁紹軍の攻撃に籠城した。
包囲された公孫瓚は子を黒山軍へ送り、救援軍と内外から袁紹軍を挟撃しようとした。
袁紹軍は偽の烽火と地下道で易京を破り、公孫瓚は妻子を殺して自害した。