191年 - 199年

袁紹・公孫瓚の河北争奪

袁紹本初えんしょう

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冀州を基盤に河北統一を進める盟主

袁紹勢力

冀州を得て公孫瓚と河北の支配を争った盟主

袁紹に関連する出来事一覧

原文

馥長史耿武、別駕閔純、治中李歷諫馥曰:「冀州雖鄙,帶甲百萬,穀支十年。袁紹孤客窮軍,仰我鼻息,譬如嬰兒在股掌之上,絕其哺乳,立可餓殺。柰何乃欲以州與之?」馥曰:「吾,袁氏故吏,且才不如本初,度德而讓,古人所貴,諸君獨何病焉!」從事趙浮、程奐請以兵拒之,馥又不聽。
日本語対訳

韓馥の長史耿武、別駕閔純、治中李歴は「冀州は辺境とはいえ、武装兵百万と十年を支える穀物があります。袁紹は孤立した客将で、困窮した軍を率い、われわれの顔色をうかがっています。手の上の幼児と同じで、乳を断てばすぐ飢え死にさせられます。なぜ州を与えようとするのですか」と諫めた。韓馥は「私は袁氏の旧臣で、才能も本初に及ばない。徳を量って譲るのは古人が重んじたことだ。諸君だけがなぜ問題にするのか」と答えた。従事の趙浮と程奐も兵で防ぐよう求めたが、韓馥は聞かなかった。

紹還軍延津,因馥惶遽,使陳留高幹、頴川荀諶等說馥曰:「公孫瓚乘勝來向南,而諸郡應之,袁車騎引軍東向,此其意不可知,竊爲將軍危之。」馥曰:「爲之柰何?」諶曰:「公孫提燕、代之卒,其鋒不可當。袁氏一時之傑,必不爲將軍下。夫冀州,天下之重資也,若兩雄并力,兵交於城下,危亡可立而待也。夫袁氏,將軍之舊,且同盟也,當今爲將軍計,莫若舉冀州以讓袁氏。袁氏得冀州,則瓚不能與之爭,必厚德將軍。冀州入於親交,是將軍有讓賢之名,而身安於泰山也。願將軍勿疑!」
日本語対訳

袁紹は延津へ軍を戻すと、韓馥が動揺しているのを受け、陳留の高幹、潁川の荀諶らを送って説得させた。彼らは「公孫瓚が勝利に乗じて南下し、諸郡も呼応しています。袁車騎も軍を東へ向け、その意図は分かりません。ひそかに将軍の身を危ぶんでいます」と述べた。韓馥が対処を尋ねると、荀諶は「公孫瓚が率いる燕・代の兵の勢いには当たれません。袁氏は当代の傑物で、将軍の下にはつかないでしょう。冀州は天下の重要な基盤です。二人の雄が力を合わせて城下で戦えば、滅亡は目前です。袁氏は将軍の旧知で同盟者でもあります。冀州を袁氏へ譲るのが最善です。袁氏が冀州を得れば、公孫瓚は争えず、袁氏は将軍の恩を厚く感じるでしょう。冀州を親しい相手へ渡せば、将軍は賢者へ譲った名声を得て、身も泰山のように安泰です。疑わないでください」と説いた。

裴注之引用書・英雄記巻六 袁紹伝・逢紀の冀州奪取策
逢紀說紹曰:「將軍舉大事而仰人資給,不據一州,無以自全。」紹荅云:「冀州兵彊,吾士饑乏,設不能辦,無所容立。」紀曰:「可與公孫瓚相聞,導使來南,擊取冀州。公孫必至而馥懼矣,因使說利害,爲陳禍福,馥必遜讓。於此之際,可據其位。」紹從其言而瓚果來。
日本語対訳

逢紀は袁紹に「将軍は大事を起こしながら他人の補給に頼っています。一州を領有しなければ自立できません」と説いた。袁紹は「冀州の兵は強く、わが兵は飢えている。もし事を成し遂げられなければ、身を置く場所もない」と答えた。逢紀は「公孫瓚と連絡を取り、南へ来て冀州を攻め取るよう仕向けるのです。公孫瓚が必ず来れば韓馥は恐れます。そこで利害と禍福を説けば、韓馥は必ず譲るでしょう。その機会に地位を得られます」と述べた。袁紹がその言葉に従うと、公孫瓚は実際に来た。

紹令麴義以八百兵爲先登,彊弩千張夾承之,紹自以步兵數萬結陣於後。義久在涼州,曉習羌鬬,兵皆驍銳。瓚見其兵少,便放騎欲陵蹈之。義兵皆伏楯下不動,未至數十步,乃同時俱起,揚塵大叫,直前衝突,彊弩雷發,所中必倒,臨陣斬瓚所署冀州刺史嚴綱甲首千餘級。瓚軍敗績,步騎奔走,不復還營。
日本語対訳

袁紹は麴義の八百人を先登隊とし、千張の強弩をその両側に配し、自らは数万の歩兵で後方に陣を敷いた。麴義は長く涼州にいて羌族との戦いに通じ、その兵はみな勇猛な精鋭だった。公孫瓚は敵が少ないと見て騎兵を放ち、踏みつぶそうとした。麴義の兵は盾の下に伏せたまま動かず、敵が数十歩まで近づくと一斉に立ち上がり、土煙を上げて叫びながら正面へ突撃した。強弩が雷のように放たれ、当たった者は必ず倒れた。公孫瓚が冀州刺史に任じた厳綱を陣中で斬り、千余の首級を挙げた。公孫瓚軍は敗れ、歩兵も騎兵も逃走して陣営へ戻らなかった。

是時,術遣孫堅屯陽城拒卓,紹使周昂奪其處。術遣越與堅攻昂,不勝,越為流矢所中死。瓚怒曰:「余弟死,禍起於紹。」遂出軍屯磐河,將以報紹。
日本語対訳

この時、袁術は孫堅を陽城に駐屯させて董卓を防がせていたが、袁紹は周昂にその拠点を奪わせた。袁術は公孫越を孫堅とともに周昂へ攻めさせたが勝てず、公孫越は流れ矢に当たって死んだ。公孫瓚は弟の死の災いは袁紹から起きたと怒り、報復のため磐河へ進軍した。

長史關靖說瓚曰:「今將軍將士,皆已土崩瓦解,其所以能相守持者,顧戀其居處老小,以將軍為主耳。將軍堅守曠日,袁紹要當自退;自退之後,四方之眾必復可合也。若將軍今舍之而去,軍無鎮重,易京之危,可立待也。將軍失本,孤在草野,何所成邪!」瓚遂止不出。
日本語対訳

長史の関靖は、将兵がなお持ちこたえるのは住居や家族を思い、公孫瓚を主と仰ぐためであり、守り続ければ袁紹は退くが、城を捨てれば易京はすぐ危うくなると説いた。公孫瓚は出撃を取りやめた。

裴注之引用書・漢晋春秋巻八 公孫瓚・劉虞伝・龍河の戦い
足下志猶未厭,乃復糾合餘燼,率我蛑賊,以焚爇勃海。孤又不獲寧,用及龍河之師。羸兵前誘,大軍未濟,而足下膽破眾散,不鼓而敗,兵眾擾亂,君臣並奔。
日本語対訳

あなたはなお満足せず、残兵を集めて勃海を荒らした。私は再び休めず、龍河へ軍を出した。弱兵を前に出して誘い、主力がまだ渡り終えないうちに、あなたの軍は恐れて崩れ、鼓を鳴らして戦う前に敗れ、君臣ともに逃走した。

紹侯者得其書,如期舉火。瓚以為救兵至,遂出欲戰。紹設伏擊,大破之,復還守。紹為地道,突壞其樓,稍至中京。瓚自知必敗,盡殺其妻子,乃自殺。
日本語対訳

袁紹の斥候が公孫瓚の書状を手に入れ、予定日に烽火を上げた。救援が来たと思った公孫瓚が出撃すると、袁紹軍は伏兵で大破した。さらに地下道で楼を崩して中央へ迫ると、公孫瓚は敗北を悟り、妻子をすべて殺して自害した。

為圍塹十重,於塹裡築京,皆高五六丈,為樓其上;中塹為京,特高十丈,自居焉,積穀三百萬斛。瓚曰:「昔謂天下事可指麾而定,今日視之,非我所決,不如休兵,力田畜谷。兵法,百樓不攻。今吾樓櫓千重,食盡此谷,足知天下之事矣。」欲以此弊紹。紹遣將攻之,連年不能拔。
日本語対訳

公孫瓚は十重の堀を巡らし、その内側にそれぞれ高さ五、六丈の丘を築き、上に楼を設けた。中央の丘は特に高く十丈あり、自らそこに住んで穀物三百万斛を蓄えた。公孫瓚は「昔は天下のことなど指図一つで定められると思っていたが、いま見れば私に決められるものではない。兵を休め、農耕に励んで穀物を蓄える方がよい。兵法にも、楼が百あれば攻めないという。いま私には幾重もの楼と櫓がある。この穀物を食べ尽くすころには、天下の行方も分かるだろう」と述べた。こうして袁紹を疲れさせようとした。袁紹は将を送って攻めたが、数年にわたり落とせなかった。