原文
陳寿本文巻六 袁紹伝・安平敗戦と冀州侵入
後馥軍安平,爲公孫瓚所敗。瓚遂引兵入冀州,以討卓爲名,內欲襲馥。馥懷不自安。
陳寿本文巻六 袁紹伝・高幹・荀諶の説得
紹還軍延津,因馥惶遽,使陳留高幹、頴川荀諶等說馥曰:「公孫瓚乘勝來向南,而諸郡應之,袁車騎引軍東向,此其意不可知,竊爲將軍危之。」馥曰:「爲之柰何?」諶曰:「公孫提燕、代之卒,其鋒不可當。袁氏一時之傑,必不爲將軍下。夫冀州,天下之重資也,若兩雄并力,兵交於城下,危亡可立而待也。夫袁氏,將軍之舊,且同盟也,當今爲將軍計,莫若舉冀州以讓袁氏。袁氏得冀州,則瓚不能與之爭,必厚德將軍。冀州入於親交,是將軍有讓賢之名,而身安於泰山也。願將軍勿疑!」
日本語対訳
袁紹は延津へ軍を戻すと、韓馥が動揺しているのを受け、陳留の高幹、潁川の荀諶らを送って説得させた。彼らは「公孫瓚が勝利に乗じて南下し、諸郡も呼応しています。袁車騎も軍を東へ向け、その意図は分かりません。ひそかに将軍の身を危ぶんでいます」と述べた。韓馥が対処を尋ねると、荀諶は「公孫瓚が率いる燕・代の兵の勢いには当たれません。袁氏は当代の傑物で、将軍の下にはつかないでしょう。冀州は天下の重要な基盤です。二人の雄が力を合わせて城下で戦えば、滅亡は目前です。袁氏は将軍の旧知で同盟者でもあります。冀州を袁氏へ譲るのが最善です。袁氏が冀州を得れば、公孫瓚は争えず、袁氏は将軍の恩を厚く感じるでしょう。冀州を親しい相手へ渡せば、将軍は賢者へ譲った名声を得て、身も泰山のように安泰です。疑わないでください」と説いた。
裴注之引用書・英雄記巻六 袁紹伝・逢紀の冀州奪取策
逢紀說紹曰:「將軍舉大事而仰人資給,不據一州,無以自全。」紹荅云:「冀州兵彊,吾士饑乏,設不能辦,無所容立。」紀曰:「可與公孫瓚相聞,導使來南,擊取冀州。公孫必至而馥懼矣,因使說利害,爲陳禍福,馥必遜讓。於此之際,可據其位。」紹從其言而瓚果來。
裴注之引用書・英雄記巻六 袁紹伝・界橋での麴義先登隊
紹令麴義以八百兵爲先登,彊弩千張夾承之,紹自以步兵數萬結陣於後。義久在涼州,曉習羌鬬,兵皆驍銳。瓚見其兵少,便放騎欲陵蹈之。義兵皆伏楯下不動,未至數十步,乃同時俱起,揚塵大叫,直前衝突,彊弩雷發,所中必倒,臨陣斬瓚所署冀州刺史嚴綱甲首千餘級。瓚軍敗績,步騎奔走,不復還營。
瓚攻拔居庸,生獲虞,執虞還薊。會卓死,天子遣使者段訓增虞邑,督六州;瓚遷前將軍,封易侯。瓚誣虞欲稱尊號,脅訓斬虞。
紹悉軍圍之。瓚遣子求救於黑山賊,复欲自將突騎直出,傍西南山,擁黑山之眾,陸梁冀州,橫斷紹後。
是時,術遣孫堅屯陽城拒卓,紹使周昂奪其處。術遣越與堅攻昂,不勝,越為流矢所中死。瓚怒曰:「余弟死,禍起於紹。」遂出軍屯磐河,將以報紹。
長史關靖說瓚曰:「今將軍將士,皆已土崩瓦解,其所以能相守持者,顧戀其居處老小,以將軍為主耳。將軍堅守曠日,袁紹要當自退;自退之後,四方之眾必復可合也。若將軍今舍之而去,軍無鎮重,易京之危,可立待也。將軍失本,孤在草野,何所成邪!」瓚遂止不出。
裴注之引用書・漢晋春秋巻八 公孫瓚・劉虞伝・龍河の戦い
足下志猶未厭,乃復糾合餘燼,率我蛑賊,以焚爇勃海。孤又不獲寧,用及龍河之師。羸兵前誘,大軍未濟,而足下膽破眾散,不鼓而敗,兵眾擾亂,君臣並奔。
虞懼瓚為變,遂舉兵襲瓚。虞為瓚所敗,出奔居庸。
虞從事漁陽鮮于輔、齊周、騎都尉鮮于銀等,率州兵欲報瓚,以燕國閻柔素有恩信,共推柔為烏丸司馬。柔招誘烏丸、鮮卑,得胡、漢數万人,與瓚所置漁陽太守鄒丹戰於潞北,大破之,斬丹。
袁紹又遣麴義及虞子和,將兵與輔合擊瓚。瓚軍數敗,乃走還易京固守。
紹侯者得其書,如期舉火。瓚以為救兵至,遂出欲戰。紹設伏擊,大破之,復還守。紹為地道,突壞其樓,稍至中京。瓚自知必敗,盡殺其妻子,乃自殺。
為圍塹十重,於塹裡築京,皆高五六丈,為樓其上;中塹為京,特高十丈,自居焉,積穀三百萬斛。瓚曰:「昔謂天下事可指麾而定,今日視之,非我所決,不如休兵,力田畜谷。兵法,百樓不攻。今吾樓櫓千重,食盡此谷,足知天下之事矣。」欲以此弊紹。紹遣將攻之,連年不能拔。