195年 - 199年
袁術が皇帝を僭称し、新たな同盟網を築けないまま軍事・外交・経済の三面から孤立していく
献帝が曹陽で敗れた後、袁術は袁氏の家格を理由に皇帝即位への意見を群臣に求めた。閻象が周文王の故事を挙げて反対すると、袁術は不機嫌になり即位を見送った。
袁術は張炯の符命を根拠に皇帝を称し、淮南尹や公卿を置いて独自の朝廷と祭祀を整えた。
孫策は袁術の称帝を諫めたが受け入れられず、袁術との関係を断って江東で独立を明確にした。
袁術は息子と呂布の娘の婚姻を通じて徐州との同盟を築こうとし、韓胤を使者に立てた。
陳珪は袁術と呂布の連携が徐州と揚州を結ぶ危険を説き、呂布は娘を呼び戻して韓胤を許へ送った。
袁術は張勲らを徐州へ送ったが、韓暹・楊奉が呂布側へ転じたため連合軍は崩れ、張勲軍は大敗した。
袁術は陳国へ侵攻し、陳王の劉寵と陳相の駱俊を誘い出して殺し、周辺勢力との対立を深めた。
曹操が自ら東征すると袁術は軍を残して退き、橋蕤らの敗死後に淮水を渡って淮南へ逃れた。
袁術の政権では後宮の奢侈が続く一方で兵士と民衆が飢え、江淮一帯の統治と軍事基盤が崩れた。
呂布と曹操への敗北で窮した袁術は灊山の旧部を頼ったが受け入れられず、進退を失った。
孤立した袁術は帝号を袁紹へ譲る意向を伝え、かつて争った袁紹の勢力を頼る道を選んだ。
袁術が袁譚を頼って青州へ向かおうとすると、曹操は劉備と朱霊を送り、北上路を遮断した。
進路を断たれた袁術は寿春へ戻る途中で病に倒れ、江亭で死んだ。