195年 - 199年

袁術の皇帝僭称

袁術公路えんじゅつ

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皇帝僭称と淮南政権の中心人物

袁術勢力

字は公路。汝南袁氏の出身で淮南を支配し、197年に皇帝を僭称した。同盟の破綻と呂布・曹操への敗北で孤立し、最後は袁紹を頼ろうとしたが進路を断たれ、道中で死んだ

袁術に関連する出来事一覧

原文

興平二年冬,天子敗於曹陽。術會羣下謂曰:「今劉氏微弱,海內鼎沸。吾家四世公輔,百姓所歸,欲應天順民,於諸君意如何?」
日本語対訳

興平二年冬、天子が曹陽で敗れた。袁術は群臣を集めて言った。「今や劉氏は弱まり、天下は騒乱の中にある。わが家は四世公輔の家柄で、民衆が頼るところである。天命に応じ民意に従いたいと思うが、諸君はどう考えるか」

衆莫敢對。主簿閻象進曰:「昔周自后稷至于文王,積德累功,參分天下有其二,猶服事殷。明公雖弈世克昌,未若有周之盛,漢室雖微,未若殷紂之暴也。」術嘿然不恱。
日本語対訳

群臣は誰も答えようとしなかった。主簿の閻象が進み出て言った。「昔、周は后稷から周文王まで徳と功績を積み、天下の三分の二を有しても、なお殷に仕えました。殿の家が代々栄えているとはいえ、周の盛大さには及びません。漢王室が弱っているとはいえ、殷紂ほど暴虐ではありません」。袁術は黙り込み、不機嫌になった。

裴注之引用書・典略巻六 袁術伝・仲氏の建号
術以袁姓出陳,陳,舜之後,以土承火,得應運之次。又見讖文云:「代漢者,當塗高也。」自以名字當之,乃建號稱仲氏。
日本語対訳

袁術は、袁氏が陳から出ており、陳は舜の後裔で、土の徳が漢の火の徳を継ぐ順序に当たると考えた。また「漢に代わる者は当塗高である」という讖文を見て、自分の名と字がこれに当たると考え、国号を建てて仲氏と称した。

沛相陳珪恐術、布成婚,則徐、揚合從,將爲國難,於是往說布曰:「曹公奉迎天子,輔讚國政,威靈命世,將征四海,將軍宜與恊同策謀,圖太山之安。今與術結婚,受天下不義之名,必有累卵之危。」布亦怨術初不己受也,女已在塗,追還絕婚,械送韓胤,梟首許市。
日本語対訳

沛相の陳珪は、袁術と呂布が婚姻すれば徐州と揚州が連携し、国家の難になると恐れた。そこで呂布に曹操と協力するよう説き、呂布は道中の娘を呼び戻して婚姻を断ち、韓胤を拘束して許へ送り、市でさらし首にした。

珪曰:「暹、奉與術,卒合之軍耳,策謀不素定,不能相維持,子登策之,比之連雞,勢不俱棲,可解離也。」布用珪策,遣人說暹、奉,使與己并力共擊術軍,軍資所有,悉許暹、奉。於是暹、奉從之,勳大破敗。
日本語対訳

陳珪は、韓暹・楊奉と袁術の軍は急に集まっただけで、策もあらかじめ定まらず、互いを支えきれないと見抜いた。呂布はその策を用いて二人を説得し、共同して袁術軍を攻めると、張勲軍は大敗した。

秋九月,術侵陳,公東征之。術聞公自來,棄軍走,留其將橋蕤、李豐、梁綱、樂就;公到,擊破蕤等,皆斬之。術走渡淮。公還許。
日本語対訳

秋九月、袁術が陳国へ侵攻すると、曹操は東征した。袁術は曹操自身が来ると聞き、軍を捨てて逃げ、将の橋蕤・李豊・梁綱・楽就を残した。曹操は到着すると橋蕤らを破り、全員を斬った。袁術は逃げて淮水を渡り、曹操は許へ帰った。

荒侈滋甚,後宮數百皆服綺縠,餘粱肉,而士卒凍餒,江淮間空盡,人民相食。
日本語対訳

袁術の奢侈はますますひどくなり、後宮の数百人は皆が美しい絹を着て、穀物や肉を余らせていた。一方、兵士は寒さと飢えに苦しみ、江淮一帯は荒れ果て、人々は互いを食べた。

時,舒仲應為術沛相,術以米十萬斛與為軍糧,仲應悉散以給饑民。術聞怒,陳兵將斬之。仲應曰:「知當必死,故為之耳。寧可以一人之命,救百姓於塗炭。」術下馬牽之曰:「仲應,足下獨欲享天下重名,不與吾共之邪?」
日本語対訳

この時、舒仲応は袁術の沛相であった。袁術が米十万斛を軍糧として渡すと、舒仲応はすべてを飢えた民へ配った。袁術は怒り、兵を並べて斬ろうとした。舒仲応は「必ず死ぬと承知していたからこそ行いました。一人の命で民衆を苦しみから救えるのです」と言った。袁術は馬を下りて彼を引き寄せ、「仲応よ、君だけが天下の重い名声を得て、私と分かち合わないつもりか」と言った。

術歸帝號於紹曰:「漢之失天下久矣,天子提挈,政在家門,豪雄角逐,分裂疆宇,此與周之末年七國分勢無異,卒彊者兼之耳。加袁氏受命當王,符瑞炳然。今君擁有四州,民戶百萬,以彊則無與比大,論德則無與比高。曹操欲扶衰拯弱,安能續絕命救已滅乎?」紹陰然之。
日本語対訳

袁術は帝号を袁紹へ譲るにあたり書状を送った。「漢が天下を失って久しく、天子は人に支えられ、政権は有力家門にある。英雄が争い、領域を分けているのは、周末に七国が勢力を分けたのと変わらず、最後には強い者が併合する。さらに袁氏が天命を受けて王となる兆しは明らかである。今、君は四州と百万の戸口を擁し、強さでも徳でも比べる者がない。曹操が衰えた漢を助けようとしても、絶えた天命を継ぎ、滅びたものを救えるだろうか」。袁紹は内心でこの考えを認めた。

裴注之引用書・呉書巻六 袁術伝・江亭での最期
術旣爲雷薄等所拒,留住三日,士衆絕糧,乃還至江亭,去壽春八十里。問廚下,尚有麥屑三十斛。時盛暑,欲得蜜漿,又無蜜。坐櫺牀上,歎息良久,乃大咤曰:「袁術至於此乎!」因頓伏牀下,嘔血斗餘,遂死。
日本語対訳

袁術は雷薄らに拒まれると三日間とどまったが、兵士たちの食糧が尽きたため引き返し、寿春から八十里の江亭へ着いた。台所へ尋ねると、麦くずが三十斛残るだけだった。盛夏のため蜜漿を求めたが、蜜もなかった。櫺床に座って長く嘆息した後、「袁術ともあろう者が、ここまで落ちたか」と大声で叫び、床の下へ倒れ込み、大量の血を吐いて死んだ。