197年 - 199年
宛城の急襲で大敗した曹操が、張繡との攻防を重ねて帰順へ導いた
張済の軍を継いで宛にいた張繡は、曹操が淯水まで進むと、配下の軍勢とともに降伏した。
曹操が張済の妻を迎え、さらに張繡をひそかに殺そうとした計画が漏れたため、張繡は曹操への急襲を決めた。
張繡軍は曹操の陣へ入り込んで急襲し、曹操を負傷させた。曹昂は自分の馬を譲って父を逃がし、曹安民とともに戦死した。
典韋は少数の兵と門前を守り、曹操の退路を確保した。兵が尽きても戦い続け、多数の傷を負って戦死した。
敗走する曹操軍の中で于禁は部隊を崩さず退き、略奪した青州兵を処罰して陣を築いた。曹操は乱戦でも軍を整えた働きを称えた。
曹操は舞陰まで退いた後、追撃してきた張繡の騎兵を破った。張繡は穣へ退き、劉表と結んだ。
南陽・章陵の諸県が再び張繡に応じ、曹洪も苦戦した。曹操は南下して湖陽と舞陰を攻略し、南陽方面を押し返した。
曹操は穣の張繡を包囲した。劉表が曹操軍の後方を断つため援軍を送ると、曹操は包囲を解いて退いた。
曹操軍は安衆で張繡・劉表軍に前後を塞がれたが、夜に道を掘って兵糧を運び出し、追撃軍を伏兵で破った。
張繡は賈詡の制止を聞かず曹操軍を追って敗れた。賈詡は曹操が急いで進んだ後なら勝てると判断し、再追撃を勧めて張繡軍を勝利へ導いた。
袁紹が張繡を招くと、賈詡は使者の前で拒絶した。張繡が強大な袁紹を頼ろうとする中、賈詡は別の選択を求めた。
賈詡は曹操が献帝を奉じ、弱い張繡軍を厚遇し、私怨を捨てると説いた。張繡が軍勢を率いて帰順すると、曹操は宴・婚姻・任命で迎えた。