194年 - 200年

孫策の江東平定

孫策伯符そんさく

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江東攻略を指揮する盟主

孫策勢力

江東攻略を指揮する盟主

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原文

策徑到壽春見袁術,涕泣而言曰:『亡父昔從長沙入討董卓,與明使君會於南陽,同盟結好;不幸遇難,勛業不終。策感惟先人舊恩,欲自憑結,願明使君垂察其誠。』術甚貴異之,然未肯還其父兵。策遂詣丹楊依舅,得數百人,而爲涇縣大帥祖郎所襲,幾至危殆。於是復往見術,術以堅餘兵千餘人還策。
日本語対訳

孫策は寿春の袁術を訪ね、亡父・孫堅と袁術の旧交を語って、自分を受け入れてほしいと願った。袁術は孫策を高く評価したが、当初は父の軍を返さなかった。孫策は丹楊の舅を頼って数百人を集めたものの、涇県の祖郎に襲われて危機に陥った。そこで再び袁術を訪ねると、袁術は孫堅の旧軍千余人を返した。

策乃説術,乞助景等平定江東。術表策爲折衝校尉,行殄寇將軍,兵財千餘,騎數十匹,賓客願從者數百人。比至歷陽,衆五六千。
日本語対訳

孫策は袁術を説き、呉景らを助けて江東を平定したいと願い出た。袁術は孫策を折衝校尉、殄寇将軍代理とし、兵千余人、騎兵数十騎を与えた。従う賓客も数百人おり、歴陽に着く頃には五、六千人となった。

策説術云:『家有舊恩在東,願助舅討橫江;橫江拔,因投本土召募,可得三萬兵,以佐明使君匡濟漢室。』術知其恨,而以劉繇據曲阿,王朗在會稽,謂策未必能定,故許之。
日本語対訳

孫策は袁術に、江東で旧恩を頼って兵を募り、漢王朝を助けたいと申し出た。袁術は孫策が自分に不満を抱いていると知っていたが、劉繇が曲阿、王朗が会稽を押さえており、孫策には平定できまいと考えて進出を認めた。

會策將東渡,到歷陽,馳書報瑜,瑜將兵迎策。策大喜曰:「吾得卿。諧也。」遂從攻橫江、當利,皆拔之。
日本語対訳

孫策が東へ渡ろうとして歴陽へ着き、急使で周瑜に知らせた。周瑜は兵を率いて孫策を迎えた。孫策は大いに喜び、「君を得て、事は整った」と言った。周瑜は孫策に従って横江と当利を攻め、どちらも攻略した。

裴注之引用書・江表傳巻四十六 孫策伝・牛渚営の攻略
策渡江攻繇牛渚營,盡得邸閣糧穀、戰具,是歳興平二年也。
日本語対訳

孫策は長江を渡って劉繇の牛渚営を攻め、倉庫の食糧と武器をすべて得た。この年は興平二年である。

時彭城相薛禮、下邳相笮融依繇爲盟主,禮據秣陵城,融屯縣南。策先攻融,融出兵交戰,斬首五百餘級,融卽閉門不敢動。因渡江攻禮,禮突走。
日本語対訳

彭城相の薛礼と下邳相の笮融は劉繇を盟主と仰ぎ、薛礼は秣陵城を守り、笮融は県の南に駐屯した。孫策が先に笮融を攻めると、笮融は出兵して戦ったが五百余人を失い、門を閉じて動かなくなった。孫策が川を渡って薛礼を攻めると、薛礼は逃走した。

時獨與一騎卒遇策。策從騎十三,皆韓當、宋謙、黃蓋輩也。慈便前鬥,正與策對。策刺慈馬,而攬得慈項上手戟,慈亦得策兜鍪。會兩家兵騎並各來赴,於是解散。
日本語対訳

太史慈が一騎だけを連れていた時、孫策と遭遇した。孫策の従騎は十三騎で、韓当・宋謙・黄蓋らがいた。太史慈は進んで戦い、孫策と向き合った。孫策は太史慈の馬を刺して首もとの手戟を奪い、太史慈も孫策の兜を取った。双方の騎兵が駆けつけたため、二人は離れた。

劉繇旣走,策入曲阿勞賜將士,遣將陳寶詣阜陵迎母及弟。發恩布令,告諸縣:『其劉繇、笮融等故鄕部曲來降首者,一無所問;樂從軍者,一身行,復除門戸;不樂者,勿強也。』旬日之間,四面雲集,得見兵二萬餘人,馬千餘匹,威震江東,形勢轉盛。
日本語対訳

劉繇が逃れると、孫策は曲阿に入り、将兵をねぎらって恩賞を与えた。諸県へ布告し、劉繇や笮融らの旧兵が降伏しても罪を問わず、従軍を望む者は本人だけを徴用して家の負担を免じ、望まない者には強制しないとした。十日ほどで四方から人が集まり、兵二万余人と馬千余頭を得て、江東に威勢を示した。

孫策渡江略地。朗功曹虞翻以爲力不能拒,不如避之。朗自以身爲漢吏,宜保城邑,遂舉兵與策戰,敗績,浮海至東冶。策又追擊,大破之。朗乃詣策。
日本語対訳

孫策が長江を渡って各地を攻略すると、王朗の功曹である虞翻は、力では防げないので避けるべきだと進言した。王朗は漢の官吏として城を守るべきだと考え、兵を挙げて孫策と戦ったが敗れ、海路で東冶へ逃れた。孫策が追撃して大破すると、王朗は孫策のもとへ出頭した。

呉人嚴白虎等衆各萬餘人,處處屯聚。呉景等欲先擊破虎等,乃至會稽。策曰:「虎等群盜,非有大志,此成禽耳。」遂引兵渡浙江,據會稽,屠東冶,乃攻破虎等。盡更置長吏,策自領會稽太守,復以呉景爲丹楊太守,以孫賁爲豫章太守。
日本語対訳

呉郡の厳白虎らは、それぞれ一万余人を集めて各地に駐屯していた。呉景らは会稽へ進む前に厳白虎らを破ろうとした。孫策は「厳白虎らは大志のない群盗で、すぐ捕らえられる」と述べ、浙江を渡って会稽を押さえ、東冶を攻め、厳白虎らを破った。孫策は各地の長官を入れ替え、自ら会稽太守となり、呉景を丹楊太守、孫賁を豫章太守とした。

裴注之引用書・江表傳巻四十六 孫策伝・陳瑀の内応策
瑀陰圖襲策,遣都尉萬演等密渡江,使持印傳三十餘紐與賊丹楊、宣城、涇、陵陽、始安、黟、歙諸險縣大帥祖郎、焦已及呉郡烏程嚴白虎等,使爲內應,伺策軍發,欲攻取諸郡。策覺之,遣呂範、徐逸攻瑀於海西,大破瑀。
日本語対訳

陳瑀はひそかに孫策を襲おうとし、都尉の万演らを長江の南へ渡らせた。印綬三十余個を持たせ、丹楊・宣城などの険しい県にいる祖郎・焦已や、呉郡烏程の厳白虎らへ与えて内応させ、孫策軍の出発後に諸郡を奪おうとした。孫策はこれを察知し、呂範と徐逸に海西の陳瑀を攻めさせ、大破した。

策躬自攻討,遂見囚執。策即解縛,捉其手曰:「寧識神亭時邪?若卿爾時得我云何?」慈曰:「未可量也。」策大笑曰:「今日之事,當與卿共之。」即署門下督,還吳授兵,拜折衝中郎將。
日本語対訳

孫策が自ら攻めると、太史慈は捕らえられた。孫策はすぐ縄を解き、手を取って「神亭で会った時を覚えているか。あの時、君が私を捕らえていたらどうしたか」と尋ねた。太史慈が「分かりません」と答えると、孫策は大笑いし、「今日からは君と事業を共にしよう」と言った。太史慈を門下督とし、呉へ戻って兵を与え、折衝中郎将に任じた。

勳新得術衆,時豫章上繚宗民萬餘家在江東。策勸勳攻取之。勳旣行,策輕軍晨夜襲拔廬江,勳衆盡降,勳獨與麾下數百人自歸曹公。
日本語対訳

劉勲が袁術の旧軍を得た頃、豫章の上繚には宗族集団一万余戸がいた。孫策は劉勲にこれを攻めるよう勧めた。劉勲が出兵すると、孫策は軽装の軍で昼夜兼行して廬江を攻略した。劉勲の軍勢はすべて降り、劉勲だけが配下数百人と曹操のもとへ逃れた。

裴注之引用書・江表傳巻四十六 孫策伝・皖城急襲
自與周瑜率二萬人歩襲皖城,卽克之,得術百工及鼓吹部曲三萬餘人,並術勛妻子。
日本語対訳

孫策は自ら周瑜と歩兵二万人を率いて皖城を急襲し、すぐに攻略した。袁術配下の技術者と楽隊・部隊三万余人、さらに袁術と劉勲の妻子を得た。

裴注之引用書・呉錄巻四十六 孫策伝・沙羨の戦い
臣以十一日平旦部所領江夏太守、行建威中郎將周瑜、領桂陽太守、行征虜中郎將呂範、領零陵太守、行蕩寇中郎將程普、行奉業校尉孫權、行先登校尉韓當、行武鋒校尉黃蓋等同時俱進。身跨馬櫟陳,手擊急鼓,以齊戰勢。
日本語対訳

十一日の明け方、孫策は周瑜・呂範・程普・孫権・韓当・黄蓋らを同時に進撃させた。自身は馬にまたがって陣を巡り、激しく太鼓を打って軍勢の動きを整えた。

建安五年,曹公與袁紹相拒於官渡,策陰欲襲許。迎漢帝,密治兵,部署諸將。未發,會爲故呉郡太守許貢客所殺。
日本語対訳

建安五年、曹操と袁紹が官渡で対峙すると、孫策はひそかに許を襲って漢の皇帝を迎えようとし、兵を整えて諸将を配置した。しかし出発前に、元呉郡太守・許貢の客に襲われた。

裴注之引用書・江表傳巻四十六 孫策伝・狩猟中の襲撃
策歸,復討陳登。軍到丹徒,須待運糧。策性好獵,將歩騎數出。策驅馳逐鹿,所乘馬精駿,從騎絶不能及。獵日,卒有三人即貢客也。策射一人,應弦而倒。餘二人便舉弓射策,中頰。後騎尋至,皆刺殺之。
日本語対訳

孫策は陳登を再び討つため丹徒へ進み、兵糧の到着を待った。狩猟を好む孫策が鹿を追うと、馬が速いため従騎はついて行けなかった。その日、許貢の客三人と遭遇し、一人を射倒したが、残る二人に弓で頬を射られた。遅れて到着した従騎が二人を刺し殺した。

創甚,請張昭等謂曰:「中國方亂,夫以呉越之衆,三江之固,足以觀成敗。公等善相吾弟!」呼權佩以印綬,謂曰:「舉江東之衆,決機於兩陳之間,與天下爭衡,卿不如我。舉賢任能,各盡其心,以保江東,我不如卿。」至夜卒,時年二十六。
日本語対訳

傷が重くなると、孫策は張昭らに「中原は乱れている。呉越の人々と三江の地勢があれば、天下の成り行きを見定められる。皆で弟をよく助けてほしい」と頼んだ。孫権を呼んで印綬を帯びさせ、「江東の軍勢を率いて戦場で機を決し、天下と争うことは私に及ばない。賢者を登用して力を尽くさせ、江東を守ることは私が君に及ばない」と告げた。その夜、二十六歳で死去した。