201年 - 207年

曹操の河北平定

袁尚えんしょう

出来事に戻る
袁紹を継ぐ冀州の後継者

袁紹勢力

審配らに擁立されて袁紹を継いだ。袁譚との内戦と曹操軍への敗北を重ね、鄴・中山から烏丸、さらに遼東へ逃れた末、公孫康に殺された

袁尚に関連する出来事一覧

原文

紹愛少子尚,皃美,欲以為後而未顯。審配、逢紀與辛評、郭圖爭權,配、紀與尚比,評、圖與譚比。衆以譚長,欲立之。配等恐譚立而評等為己害,緣紹素意,乃奉尚代紹位。譚至,不得立,自號車騎將軍。由是譚、尚有隙。
日本語対訳

袁紹は容姿の整った末子の袁尚を愛し、後継者にしようと考えていたが、公にはしていなかった。審配・逢紀は袁尚に、辛評・郭図は袁譚に付いた。人々は長男の袁譚を立てようとしたが、審配らは袁紹の生前の意向を理由に袁尚を後継者として奉じた。袁譚は後を継げず、自ら車騎将軍を名乗ったため、兄弟の間に亀裂が生じた。

太祖渡河攻譚,譚告急於尚。尚欲分兵益譚,恐譚遂奪其衆,乃使審配守鄴,尚自將兵助譚,與太祖相拒於黎陽。自二月至九月,大戰城下,譚、尚敗退,入城守。太祖將圍之,乃夜遁。追至鄴,收其麥,拔陰安,引軍還許。
日本語対訳

曹操が黄河を渡って袁譚を攻めると、袁譚は袁尚に救援を求めた。袁尚は審配に鄴を守らせ、自ら兵を率いて袁譚を助け、黎陽で曹操と対峙した。二月から九月まで城下で大戦が続いたが、袁譚と袁尚は敗れて城へ退き、包囲される前に夜逃れた。曹操は鄴まで追って麦を収め、陰安を攻略して許へ帰った。

諸將欲乘勝遂攻之,嘉曰:「袁紹愛此二子,莫適立也。有郭圖、逢紀為之謀臣,必交鬥其間,還相離也。急之則相持,緩之而後爭心生。不如南向荊州若征劉表者,以待其變;變成而後擊之,可一舉定也。」太祖曰:「善。」乃南征。軍至西平,譚、尚果爭冀州。
日本語対訳

諸将は勝ちに乗じて攻め続けようとした。郭嘉は、袁紹が二人の子を愛して後継者を定めず、郭図と逢紀がそれぞれに付いているため、急攻すれば兄弟は協力するが、圧力を緩めれば争い始めると説いた。曹操はこの策を採り、南へ向かった。軍が西平へ着くと、袁譚と袁尚は予想どおり冀州を争った。

太祖南征荊州,軍至西平。譚、尚遂舉兵相攻,譚敗奔平原。尚攻之急,譚遣辛毗詣太祖請救。太祖乃還救譚,十月至黎陽。
日本語対訳

曹操が荊州へ南征して西平まで進むと、袁譚と袁尚は互いに兵を挙げて攻め合った。袁譚は敗れて平原へ逃れ、袁尚の攻撃が激しくなると、辛毗を曹操のもとへ送り救援を求めた。曹操は袁譚を救うため引き返し、十月に黎陽へ着いた。

譚爲尚所敗,走保平原。尚攻之急,譚遣辛毗乞降請救。諸將皆疑,荀攸勸公許之,公乃引軍還。冬十月,到黎陽,爲子整與譚結婚。尚聞公北,乃釋平原還鄴。
日本語対訳

袁譚は袁尚に敗れて平原へ逃れた。袁尚の攻撃が激しくなると、袁譚は辛毗を送り、降伏と救援を申し入れた。諸将が疑う中、荀攸は受け入れるよう曹操に勧めた。曹操は軍を戻し、冬十月に黎陽へ着くと、息子の曹整と袁譚の娘を婚姻させた。袁尚は曹操の北上を知り、平原の包囲を解いて鄴へ戻った。

尚聞鄴急,將兵萬餘人還救之。太祖逆擊之,敗還,尚亦破走。未合,尚懼,遣陰夔、陳琳乞降,不聽。尚還走濫口,進復圍之急,其將馬延等臨陣降,衆大潰,尚奔中山。
日本語対訳

袁尚は鄴の危機を知り、一万余りの兵を率いて救援に戻った。曹操が迎え撃つと敗走し、陰夔と陳琳を送って降伏を求めたが、受け入れられなかった。袁尚は濫口へ逃れたが再び包囲され、配下の馬延らが戦場で降伏すると軍勢は崩れ、袁尚は中山へ逃れた。

尚、熙與蹋頓、遼西單于樓班、右北平單于能臣抵之等,將數萬騎逆軍。八月,登白狼山,卒與虜遇,衆甚盛。公登高,望虜陣不整,乃縱兵擊之,使張遼爲先鋒,虜衆大崩,斬蹋頓及名王已下。
日本語対訳

袁尚・袁熙は蹋頓、遼西単于の楼班、右北平単于の能臣抵之らと数万騎を率いて曹操軍を迎え撃った。八月、曹操軍が白狼山へ登ったところで突然遭遇し、敵は非常に多かった。曹操は高所から敵陣が整っていないのを見て攻撃を命じ、張遼を先鋒にした。烏丸軍は大きく崩れ、蹋頓と名王以下が討たれた。

尚、熙奔遼東。公曰:「吾方使康斬送尚、熙首,不煩兵矣。」九月,公引兵自柳城還。康即斬尚、熙及速僕丸等,傳其首。公曰:「彼素畏尚等,吾急之則并力,緩之則自相圖,其勢然也。」
日本語対訳

袁尚と袁熙は遼東へ逃れた。曹操は、公孫康に袁尚・袁熙の首を送らせるので軍を動かす必要はないと述べ、九月に柳城から引き返した。公孫康は袁尚・袁熙と速僕丸らを斬り、その首を送った。曹操は、公孫康が以前から袁尚らを恐れており、急攻すれば協力するが、圧力を緩めれば互いに相手を排除すると説明した。