201年 - 207年

曹操の河北平定

曹操孟徳そうそう

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河北平定を進める司空

曹操勢力

袁氏兄弟の内紛を利用して鄴・南皮を攻略し、并州の反乱を鎮めた。さらに烏丸を白狼山で破り、袁氏の河北政権を終わらせた

曹操に関連する出来事一覧

原文

太祖渡河攻譚,譚告急於尚。尚欲分兵益譚,恐譚遂奪其衆,乃使審配守鄴,尚自將兵助譚,與太祖相拒於黎陽。自二月至九月,大戰城下,譚、尚敗退,入城守。太祖將圍之,乃夜遁。追至鄴,收其麥,拔陰安,引軍還許。
日本語対訳

曹操が黄河を渡って袁譚を攻めると、袁譚は袁尚に救援を求めた。袁尚は審配に鄴を守らせ、自ら兵を率いて袁譚を助け、黎陽で曹操と対峙した。二月から九月まで城下で大戦が続いたが、袁譚と袁尚は敗れて城へ退き、包囲される前に夜逃れた。曹操は鄴まで追って麦を収め、陰安を攻略して許へ帰った。

諸將欲乘勝遂攻之,嘉曰:「袁紹愛此二子,莫適立也。有郭圖、逢紀為之謀臣,必交鬥其間,還相離也。急之則相持,緩之而後爭心生。不如南向荊州若征劉表者,以待其變;變成而後擊之,可一舉定也。」太祖曰:「善。」乃南征。軍至西平,譚、尚果爭冀州。
日本語対訳

諸将は勝ちに乗じて攻め続けようとした。郭嘉は、袁紹が二人の子を愛して後継者を定めず、郭図と逢紀がそれぞれに付いているため、急攻すれば兄弟は協力するが、圧力を緩めれば争い始めると説いた。曹操はこの策を採り、南へ向かった。軍が西平へ着くと、袁譚と袁尚は予想どおり冀州を争った。

太祖南征荊州,軍至西平。譚、尚遂舉兵相攻,譚敗奔平原。尚攻之急,譚遣辛毗詣太祖請救。太祖乃還救譚,十月至黎陽。
日本語対訳

曹操が荊州へ南征して西平まで進むと、袁譚と袁尚は互いに兵を挙げて攻め合った。袁譚は敗れて平原へ逃れ、袁尚の攻撃が激しくなると、辛毗を曹操のもとへ送り救援を求めた。曹操は袁譚を救うため引き返し、十月に黎陽へ着いた。

譚爲尚所敗,走保平原。尚攻之急,譚遣辛毗乞降請救。諸將皆疑,荀攸勸公許之,公乃引軍還。冬十月,到黎陽,爲子整與譚結婚。尚聞公北,乃釋平原還鄴。
日本語対訳

袁譚は袁尚に敗れて平原へ逃れた。袁尚の攻撃が激しくなると、袁譚は辛毗を送り、降伏と救援を申し入れた。諸将が疑う中、荀攸は受け入れるよう曹操に勧めた。曹操は軍を戻し、冬十月に黎陽へ着くと、息子の曹整と袁譚の娘を婚姻させた。袁尚は曹操の北上を知り、平原の包囲を解いて鄴へ戻った。

尚使審配、蘇由守鄴,復攻譚平原。太祖進軍將攻鄴,到洹水,去鄴五十里,由欲為內應,謀泄,與配戰城中,敗,出奔太祖。太祖遂進攻之,為地道,配亦於內作塹以當之。
日本語対訳

袁尚は審配と蘇由に鄴を守らせ、再び平原の袁譚を攻めた。曹操が鄴を攻めるため洹水まで進むと、蘇由は内応しようとしたが計画が漏れ、城内で審配と戦って敗れ、曹操へ逃れた。曹操軍は地下道を掘って攻め、審配も城内に壕を作って防いだ。

太祖遂圍之,為塹,周四十里,初令淺,示若可越。配望而笑之,不出爭利。太祖一夜掘之,廣深二丈,決漳水以灌之,自五月至八月,城中餓死者過半。
日本語対訳

曹操は鄴を包囲し、周囲四十里に壕を作った。初めは浅く掘って渡れそうに見せたため、審配は笑って妨害に出なかった。曹操は一夜で幅と深さが二丈の壕に掘り直し、漳水を引き入れた。五月から八月までに、城内では飢えて死ぬ者が半数を超えた。

尚聞鄴急,將兵萬餘人還救之。太祖逆擊之,敗還,尚亦破走。未合,尚懼,遣陰夔、陳琳乞降,不聽。尚還走濫口,進復圍之急,其將馬延等臨陣降,衆大潰,尚奔中山。
日本語対訳

袁尚は鄴の危機を知り、一万余りの兵を率いて救援に戻った。曹操が迎え撃つと敗走し、陰夔と陳琳を送って降伏を求めたが、受け入れられなかった。袁尚は濫口へ逃れたが再び包囲され、配下の馬延らが戦場で降伏すると軍勢は崩れ、袁尚は中山へ逃れた。

配兄子榮守東門,夜開門內太祖兵,與配戰城中,生禽配。配聲氣壯烈,終無撓辭,見者莫不歎息。遂斬之。
日本語対訳

審配の兄の子である審栄は東門を守っていたが、夜に門を開いて曹操軍を入れた。城内で審配と戦い、生け捕りにした。審配は最後まで気力を失わず、屈する言葉を口にしなかったため、見る者は皆感嘆した。その後、審配は斬られた。

初,袁紹以甥高幹領并州牧,公之拔鄴,幹降,遂以爲刺史。幹聞公討烏丸,乃以州叛,執上黨太守,舉兵守壺關口。遣樂進、李典擊之。十一年春正月,公征幹。公圍壺關三月,拔之。幹遂走荊州,上洛都尉王琰捕斬之。
日本語対訳

袁紹は甥の高幹に并州牧を務めさせていた。曹操が鄴を攻略すると高幹は降伏し、そのまま刺史とされた。しかし高幹は并州で反乱し、上党太守を捕らえて壺関口を守った。曹操は楽進と李典を送り、建安十一年春正月には自ら討伐へ向かった。壺関を三か月包囲して落とすと、高幹は荊州へ逃れようとしたが、上洛都尉の王琰に捕らえられて斬られた。

時方夏水雨,而濵海洿下,濘滯不通,虜亦遮守蹊要,軍不得進。太祖患之,以問疇。疇曰:「舊北平郡治在平岡,道出盧龍,達于柳城;自建武以來,陷壞斷絕,垂二百載,而尚有微徑可從。」太祖曰:「善。」太祖令疇將其衆為鄉導,上徐無山,出盧龍,歷平岡,登白狼堆。
日本語対訳

夏の長雨で沿岸の低地がぬかるみ、烏丸軍が要所を守ったため、曹操軍は進めなくなった。曹操が田疇に尋ねると、田疇は、旧北平郡の治所だった平岡から盧龍を出て柳城へ至る道は約二百年間途絶えているが、なお細い道が残ると答えた。曹操はこの策を採り、田疇に案内させて徐無山を登り、盧龍を出て平岡を通り、白狼堆へ進んだ。

尚、熙與蹋頓、遼西單于樓班、右北平單于能臣抵之等,將數萬騎逆軍。八月,登白狼山,卒與虜遇,衆甚盛。公登高,望虜陣不整,乃縱兵擊之,使張遼爲先鋒,虜衆大崩,斬蹋頓及名王已下。
日本語対訳

袁尚・袁熙は蹋頓、遼西単于の楼班、右北平単于の能臣抵之らと数万騎を率いて曹操軍を迎え撃った。八月、曹操軍が白狼山へ登ったところで突然遭遇し、敵は非常に多かった。曹操は高所から敵陣が整っていないのを見て攻撃を命じ、張遼を先鋒にした。烏丸軍は大きく崩れ、蹋頓と名王以下が討たれた。

尚、熙奔遼東。公曰:「吾方使康斬送尚、熙首,不煩兵矣。」九月,公引兵自柳城還。康即斬尚、熙及速僕丸等,傳其首。公曰:「彼素畏尚等,吾急之則并力,緩之則自相圖,其勢然也。」
日本語対訳

袁尚と袁熙は遼東へ逃れた。曹操は、公孫康に袁尚・袁熙の首を送らせるので軍を動かす必要はないと述べ、九月に柳城から引き返した。公孫康は袁尚・袁熙と速僕丸らを斬り、その首を送った。曹操は、公孫康が以前から袁尚らを恐れており、急攻すれば協力するが、圧力を緩めれば互いに相手を排除すると説明した。