188年 - 189年

西園八校尉と宮廷政変

劉協りゅうきょう

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擁立候補となる皇子

霊帝・少帝政権

霊帝から蹇碩へ託され、何進排除後に擁立される候補となった。

劉協に関連する出来事一覧

原文

初,何皇后生皇子辯,王貴人生皇子協。群臣請立太子,帝以辯輕佻無威儀,不可為人主,然皇后有寵,且進又居重權,故久不決。六年,帝疾篤,屬協於蹇碩。碩既受遺詔,且素輕忌於進兄弟,及帝崩,碩時在內,欲先誅進而立協。及進從外入,碩司馬潘隱與進早舊,迎而目之。進驚,馳從儳道歸營,引兵入屯百郡邸,因稱疾不入。碩謀不行,皇子辯乃即位,何太后臨朝,進與太傅袁隗輔政,錄尚書事。
日本語対訳

これより前、何皇后は皇子の劉弁を生み、王貴人は皇子の劉協を生んだ。群臣は太子を立てるよう求めたが、霊帝は劉弁が軽薄で威儀に乏しく、人の君主にできないと考えた。しかし何皇后が寵愛され、何進も重い権力を握っていたため、長く決定しなかった。中平六年、霊帝の病が重くなると、劉協を蹇碩に託した。蹇碩は遺詔を受け、以前から何進兄弟を軽んじ警戒していたので、霊帝が崩御した時、宮中にいた蹇碩は、まず何進を殺して劉協を立てようとした。何進が外から入って来ると、蹇碩の司馬で、以前から何進と親交のあった潘隠が出迎え、目配せして知らせた。何進は驚き、急いで脇道から軍営へ戻り、兵を率いて百郡邸へ入り駐屯し、病気と称して宮中へ入らなかった。蹇碩の計画は実行できず、皇子劉弁が即位した。何太后が朝廷の政務を執り、何進と太傅の袁隗が政務を補佐して録尚書事となった。