188年 - 189年

西園八校尉と宮廷政変

蹇碩けんせき

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西園軍を統べ劉協擁立を図った上軍校尉

宮中宦官勢力

西園上軍校尉・元帥として禁軍を統べ、霊帝崩御後に劉協擁立を図った。何進誅殺を求める書状が郭勝から漏れ、何進に捕らえられ処刑された。

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原文

五年,天下滋亂,望氣者以為京師當有大兵,兩宮流血。大將軍司馬許涼、假司馬伍宕說進曰:「太公六韜有天子將兵事,可以威厭四方。」進以為然,入言之於帝。於是乃詔進大發四方兵,講武於平樂觀下。起大壇,上建十二重五采華蓋,高十丈,壇東北為小壇,復建九重華蓋,高九丈,列步兵,騎士數萬人,結營為陳。天子親出臨軍,駐大華蓋下,進駐小華蓋下。禮畢,帝躬擐甲介馬,稱「無上將軍」,行陳三匝而還。詔使進悉領兵屯於觀下。是時置西園八校尉,以小黃門蹇碩為上軍校尉,虎賁中郎將袁紹為中軍校尉,屯騎都尉鮑鴻為下軍校尉,議郎曹操為典軍校尉,趙融為助軍校尉,淳于瓊為佐軍校尉,又有左右校尉。帝以蹇碩壯健而有武略,特親任之,以為元帥,督司隸校尉以下,雖大將軍亦領屬焉。
日本語対訳

中平五年、天下の乱れはいよいよ深まり、気を観測する者は、京師で大軍が動き、南宮と北宮に血が流れるだろうと考えた。大将軍司馬の許涼と仮司馬の伍宕は何進に、『太公六韜には天子が兵を率いた事例があり、これによって四方を威圧できます』と説いた。何進はそのとおりだと考え、宮中に入って霊帝へ進言した。そこで霊帝は何進に命じて四方の兵を大動員し、平楽観の下で軍事演習を行わせた。大きな高台を築き、その上に十二重・五色の華蓋を立て、高さを十丈とした。その東北には小さな高台を設け、さらに九重の華蓋を立て、高さを九丈とし、歩兵と騎兵数万人を並べ、陣営を組んで陣を作った。天子は自ら出て軍に臨み、大華蓋の下に駐まり、何進は小華蓋の下に駐まった。儀礼が終わると、霊帝は自ら甲冑をまとい、馬にも甲を着け、『無上将軍』と称し、陣を三周して戻った。霊帝は何進に全兵を率いて平楽観の下へ駐屯するよう命じた。この時、西園八校尉を設置し、小黄門の蹇碩を上軍校尉、虎賁中郎将の袁紹を中軍校尉、屯騎都尉の鮑鴻を下軍校尉、議郎の曹操を典軍校尉、趙融を助軍校尉、淳于瓊を佐軍校尉とし、さらに左校尉と右校尉を置いた。霊帝は、蹇碩が壮健で武略を備えているとして特に親任し、元帥として司隷校尉以下を監督させ、大将軍である何進さえもその指揮下に置いた。

初,何皇后生皇子辯,王貴人生皇子協。群臣請立太子,帝以辯輕佻無威儀,不可為人主,然皇后有寵,且進又居重權,故久不決。六年,帝疾篤,屬協於蹇碩。碩既受遺詔,且素輕忌於進兄弟,及帝崩,碩時在內,欲先誅進而立協。及進從外入,碩司馬潘隱與進早舊,迎而目之。進驚,馳從儳道歸營,引兵入屯百郡邸,因稱疾不入。碩謀不行,皇子辯乃即位,何太后臨朝,進與太傅袁隗輔政,錄尚書事。
日本語対訳

これより前、何皇后は皇子の劉弁を生み、王貴人は皇子の劉協を生んだ。群臣は太子を立てるよう求めたが、霊帝は劉弁が軽薄で威儀に乏しく、人の君主にできないと考えた。しかし何皇后が寵愛され、何進も重い権力を握っていたため、長く決定しなかった。中平六年、霊帝の病が重くなると、劉協を蹇碩に託した。蹇碩は遺詔を受け、以前から何進兄弟を軽んじ警戒していたので、霊帝が崩御した時、宮中にいた蹇碩は、まず何進を殺して劉協を立てようとした。何進が外から入って来ると、蹇碩の司馬で、以前から何進と親交のあった潘隠が出迎え、目配せして知らせた。何進は驚き、急いで脇道から軍営へ戻り、兵を率いて百郡邸へ入り駐屯し、病気と称して宮中へ入らなかった。蹇碩の計画は実行できず、皇子劉弁が即位した。何太后が朝廷の政務を執り、何進と太傅の袁隗が政務を補佐して録尚書事となった。

進素知中官天下所疾,兼忿蹇碩圖己,及秉朝政,陰規誅之。袁紹亦素有謀,因進親客張津勸之曰:「黃門常侍權重日久,又與長樂太后專通姦利,將軍宜更清選賢良,整齊天下,為國家除患。」進然其言。又以袁氏累世寵貴,海內所歸,而紹素善養士,能得豪傑用,其從弟虎賁中郎將術亦尚氣俠,故並厚待之。因復博徵智謀之士龐紀、何顒、荀攸等,與同腹心。蹇碩疑不自安,與中常侍趙忠等書曰:「大將軍兄弟秉國專朝,今與天下黨人謀誅先帝左右,埽滅我曹。但以碩典禁兵,故且沈吟。今宜共閉上閤,急捕誅之。」中常侍郭勝,進同郡人也。太后及進之貴幸,勝有力焉。故勝親信何氏,遂共趙忠等議,不從碩計,而以其書示進。進乃使黃門令收碩,誅之,因領其屯兵。
日本語対訳

何進は以前から、宦官が天下の人々に憎まれていることを知っており、さらに蹇碩が自分を殺そうとしたことに憤っていた。朝政を握ると、ひそかに蹇碩を誅殺しようと計画した。袁紹も以前から計略を持ち、何進の親しい客である張津を通じて、『黄門と常侍は長い間大きな権力を握り、長楽太后とも結んで私利を専らにしています。将軍は賢良を改めて選び、天下を整え、国家の患いを除くべきです』と勧めさせた。何進はその言葉を正しいとした。また袁氏が代々寵愛と高位を得て天下の人々が頼る家であり、袁紹は士を養って豪傑を用いることに長け、従弟の虎賁中郎将袁術も侠気を尊んでいたため、二人を厚遇した。さらに龐紀・何顒・荀攸ら智謀の士を広く招き、腹心とした。蹇碩は疑念を抱いて不安になり、中常侍の趙忠らに書状を送り、『大将軍兄弟が国政を専断し、今や天下の党人と先帝の側近を誅して我々を一掃しようとしている。私が禁兵を統轄しているため、まだためらっているだけだ。共に上閤を閉ざし、急いで何進を捕らえて殺すべきだ』と述べた。中常侍の郭勝は何進と同郡の人で、何太后と何進が高位を得る際に力を尽くしていた。そのため郭勝は何氏を親しく信頼し、趙忠らと相談して蹇碩の計画に従わず、書状を何進に見せた。何進は黄門令に蹇碩を逮捕させ、処刑し、その駐屯兵を接収した。