原文
五年,天下滋亂,望氣者以為京師當有大兵,兩宮流血。大將軍司馬許涼、假司馬伍宕說進曰:「太公六韜有天子將兵事,可以威厭四方。」進以為然,入言之於帝。於是乃詔進大發四方兵,講武於平樂觀下。起大壇,上建十二重五采華蓋,高十丈,壇東北為小壇,復建九重華蓋,高九丈,列步兵,騎士數萬人,結營為陳。天子親出臨軍,駐大華蓋下,進駐小華蓋下。禮畢,帝躬擐甲介馬,稱「無上將軍」,行陳三匝而還。詔使進悉領兵屯於觀下。是時置西園八校尉,以小黃門蹇碩為上軍校尉,虎賁中郎將袁紹為中軍校尉,屯騎都尉鮑鴻為下軍校尉,議郎曹操為典軍校尉,趙融為助軍校尉,淳于瓊為佐軍校尉,又有左右校尉。帝以蹇碩壯健而有武略,特親任之,以為元帥,督司隸校尉以下,雖大將軍亦領屬焉。
中平五年、天下の乱れはいよいよ深まり、気を観測する者は、京師で大軍が動き、南宮と北宮に血が流れるだろうと考えた。大将軍司馬の許涼と仮司馬の伍宕は何進に、『太公六韜には天子が兵を率いた事例があり、これによって四方を威圧できます』と説いた。何進はそのとおりだと考え、宮中に入って霊帝へ進言した。そこで霊帝は何進に命じて四方の兵を大動員し、平楽観の下で軍事演習を行わせた。大きな高台を築き、その上に十二重・五色の華蓋を立て、高さを十丈とした。その東北には小さな高台を設け、さらに九重の華蓋を立て、高さを九丈とし、歩兵と騎兵数万人を並べ、陣営を組んで陣を作った。天子は自ら出て軍に臨み、大華蓋の下に駐まり、何進は小華蓋の下に駐まった。儀礼が終わると、霊帝は自ら甲冑をまとい、馬にも甲を着け、『無上将軍』と称し、陣を三周して戻った。霊帝は何進に全兵を率いて平楽観の下へ駐屯するよう命じた。この時、西園八校尉を設置し、小黄門の蹇碩を上軍校尉、虎賁中郎将の袁紹を中軍校尉、屯騎都尉の鮑鴻を下軍校尉、議郎の曹操を典軍校尉、趙融を助軍校尉、淳于瓊を佐軍校尉とし、さらに左校尉と右校尉を置いた。霊帝は、蹇碩が壮健で武略を備えているとして特に親任し、元帥として司隷校尉以下を監督させ、大将軍である何進さえもその指揮下に置いた。
初,何皇后生皇子辯,王貴人生皇子協。群臣請立太子,帝以辯輕佻無威儀,不可為人主,然皇后有寵,且進又居重權,故久不決。六年,帝疾篤,屬協於蹇碩。碩既受遺詔,且素輕忌於進兄弟,及帝崩,碩時在內,欲先誅進而立協。及進從外入,碩司馬潘隱與進早舊,迎而目之。進驚,馳從儳道歸營,引兵入屯百郡邸,因稱疾不入。碩謀不行,皇子辯乃即位,何太后臨朝,進與太傅袁隗輔政,錄尚書事。
これより前、何皇后は皇子の劉弁を生み、王貴人は皇子の劉協を生んだ。群臣は太子を立てるよう求めたが、霊帝は劉弁が軽薄で威儀に乏しく、人の君主にできないと考えた。しかし何皇后が寵愛され、何進も重い権力を握っていたため、長く決定しなかった。中平六年、霊帝の病が重くなると、劉協を蹇碩に託した。蹇碩は遺詔を受け、以前から何進兄弟を軽んじ警戒していたので、霊帝が崩御した時、宮中にいた蹇碩は、まず何進を殺して劉協を立てようとした。何進が外から入って来ると、蹇碩の司馬で、以前から何進と親交のあった潘隠が出迎え、目配せして知らせた。何進は驚き、急いで脇道から軍営へ戻り、兵を率いて百郡邸へ入り駐屯し、病気と称して宮中へ入らなかった。蹇碩の計画は実行できず、皇子劉弁が即位した。何太后が朝廷の政務を執り、何進と太傅の袁隗が政務を補佐して録尚書事となった。