189年 - 191年

董卓専横と反董卓連合

劉協りゅうきょう

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董卓に擁立された献帝

後漢朝廷・皇帝側

董卓から少帝に代わる皇帝候補として名を挙げられた。董卓軍が洛陽を焼く直前、車駕を率いる形で長安へ移された。霊帝の年少の皇子で陳留王だったが、董卓に擁立されて皇帝となった。董卓の決定により、即位直後の朝廷とともに洛陽から長安へ移された。

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原文

董卓呼紹議欲廢帝立陳留王是時紹叔父隗爲太傅紹偽許之「此大事出當與太傅議」卓曰「劉氏種不足復遺」紹不應橫刀長揖而去
日本語対訳

董卓袁紹を呼び、少帝を廃して陳留王を立てたいと相談した。この時、袁紹の叔父の袁隗太傅であった。袁紹は表向き同意して、「これは重大な事です。退出して太傅と相談すべきでしょう」と言った。董卓は「劉氏の血筋は、もう残しておく価値がない」と言った。袁紹は答えず、刀を横に構えて長揖し、その場を去った。

卓以山東豪傑並起恐懼不寧初平元年二月乃徙天子都長安
日本語対訳

董卓は関東の豪傑が一斉に挙兵したため、恐れて落ち着かなかった。初平元年二月、皇帝を移して長安を都とした。

大駕即西卓部兵燒洛陽城外面百里又自將兵燒南北宮及宗廟府庫民家城內埽地殄盡又收諸富室以罪惡沒入其財物無辜而死者不可勝計
日本語対訳

続漢書』によれば、皇帝の車駕はただちに西へ向かった。董卓の部隊は洛陽城外の百里にわたる地域を焼いた。董卓は自ら兵を率いて南宮北宮宗廟府庫、民家を焼き、城内を一面残らず壊滅させた。さらに富裕な家々を捕らえ、罪があるとして財産没収を行った。無実の死者は数え切れなかった。