189年 - 191年

董卓専横と反董卓連合

曹操孟徳そうそう

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陳留で挙兵し西進した奮武将軍

曹操義兵

曹操は陳留で義兵を組織し、連合軍の西進を主張した。滎陽で徐栄に敗れて負傷した後も、酸棗諸軍へ要地を分担する作戦を示したが採用されず、劉虞擁立案も拒否した。

曹操に関連する出来事一覧

原文

初平元年春正月,後將軍袁術、冀州牧韓馥、豫州刺史孔伷、兖州刺史劉岱、河內太守王匡、勃海太守袁紹、陳留太守張邈、東郡太守橋瑁、山陽太守袁遺、濟北相鮑信同時俱起兵,衆各數萬,推紹爲盟主。太祖行奮武將軍。
日本語対訳

初平元年春正月、後将軍の袁術、冀州牧の韓馥、豫州刺史の孔伷、兗州刺史の劉岱、河内太守の王匡、勃海太守の袁紹、陳留太守の張邈、東郡太守の橋瑁、山陽太守の袁遺、済北相の鮑信が同時に挙兵した。それぞれの兵は数万人で、袁紹を盟主に推した。曹操は奮武将軍を代行した。

遂引兵西,將據成臯。邈遣將衞茲分兵隨太祖。到熒陽汴水,遇卓將徐榮,與戰不利,士卒死傷甚多。太祖爲流矢所中,所乘馬被創,從弟洪以馬與太祖,得夜遁去。榮見太祖所將兵少,力戰盡日,謂酸棗未易攻也,亦引兵還。
日本語対訳

曹操は兵を率いて西へ進み、成皋を占拠しようとした。張邈は将の衛茲に兵を分け、曹操へ従わせた。滎陽の汴水へ到着すると、董卓配下の将である徐栄と遭遇し、戦いは不利となって兵士の死傷者が非常に多かった。曹操は流れ矢に当たり、乗馬も傷ついた。従弟の曹洪が自分の馬を曹操へ与えたため、曹操は夜に逃れることができた。徐栄は、曹操の兵が少ないのに一日中力戦したのを見て、酸棗は容易には攻められないと判断し、自軍も引き返した。

太祖到酸棗,諸軍兵十餘萬,日置酒高會,不圖進取。太祖責讓之,因爲謀曰:「諸君聽吾計,使勃海引河內之衆臨孟津,酸棗諸將守成臯,據敖倉,塞轘轅、太谷,全制其險;使袁將軍率南陽之軍軍丹、析,入武關,以震三輔:皆高壘深壁,勿與戰,益爲疑兵,示天下形勢,以順誅逆,可立定也。今兵以義動,持疑而不進,失天下之望,竊爲諸君耻之!」邈等不能用。
日本語対訳

曹操が酸棗へ到着すると、諸軍には十余万の兵がいたが、毎日酒宴を開くばかりで進軍を企てなかった。曹操は彼らを責め、次の作戦を示した。「諸君が私の策を聞くなら、勃海の袁紹に河内の軍を率いて孟津へ臨ませ、酸棗の諸将は成皋を守って敖倉を押さえ、轘轅と太谷を塞いで要害を完全に支配させる。袁将軍である袁術には南陽軍を率いて丹水・析県へ駐屯し、武関へ入って三輔を震撼させる。いずれも高い陣壁と深い堀を築き、正面戦闘を避け、さらに陽動部隊を配置して天下へ軍勢の形を示す。正義に従って反逆者を討てば、すぐに平定できる。いま正義を掲げて兵を起こしたのに、疑って進まなければ天下の期待を失う。私は諸君のために恥じる」。しかし張邈らはこの策を採用しなかった。

中牟疑是亡人,見拘於縣。時掾亦已被卓書;唯功曹心知是太祖,以世方亂,不宜拘天下雄儁,因白令釋之。
日本語対訳

『世語』によれば、中牟では曹操を逃亡者と疑って拘束した。董卓の手配書が届いていたが、功曹だけは曹操だと知り、乱世に天下の俊英を拘束すべきでないと県令へ申し上げ、釈放させた。