192年 - 196年

董卓暗殺と後漢朝廷の流転

王允子師おういん

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董卓暗殺と暗殺後の朝政を主導する司徒

後漢朝廷

董卓暗殺を主導した司徒。長安陥落後も朝廷に残り、李傕らに処刑された

王允に関連する出来事一覧

原文

允初議赦卓部曲,呂布亦數勸之。既而疑曰:「此輩無罪,從其主耳。今若名為惡逆而特赦之,適足使其自疑,非所以安之之道也。」呂布又欲以卓財物班賜公卿、將校,允又不從。
日本語対訳

王允は当初、董卓の部曲に正式な赦免令を出すことを検討し、呂布もたびたび勧めた。しかし王允は、「彼らにはもともと罪がなく、旧主の董卓に従っただけだ。それなのに反逆者と位置づけたうえで特別に赦免すれば、自分たちが罪を問われているのではないかと、かえって疑わせる。これは彼らを安心させる方法ではない」と考え、赦免令を出す案を取りやめた。呂布は董卓の財物を公卿や将校へ分け与えることも求めたが、王允はこの提案にも従わなかった。

裴注之引用書・謝承後漢書巻六 董卓伝・蔡邕の収監と死
蔡邕在王允坐,聞卓死,有歎惜之音。允責邕曰:「卓,國之大賊,殺主殘臣,天地所不祐,人神所同疾。君爲王臣,世受漢恩,國主危難,曾不倒戈,卓受天誅,而更嗟痛乎?」便使收付廷尉。邕謝允曰:「雖以不忠,猶識大義,古今安危,耳所厭聞,口所常玩,豈當背國而向卓也?狂瞽之詞,謬出患入,願黥首爲刑以繼漢史。」公卿惜邕才,咸共諫允。允曰:「昔武帝不殺司馬遷,使作謗書,流於後世。方今國祚中衰,戎馬在郊,不可令佞臣執筆在幼主左右,後令吾徒並受謗議。」遂殺邕。
日本語対訳

蔡邕は王允の座にいて董卓の死を聞くと、惜しむ声を漏らした。王允は、董卓は君主を殺し臣下を傷つけた国の大賊であり、漢の恩を受けた臣がその天誅を嘆くのかと蔡邕を責め、廷尉へ引き渡した。蔡邕は、大義を理解しており国に背いて董卓へ心を寄せたのではないと謝り、入れ墨の刑を受けても漢史を完成させたいと願った。公卿は蔡邕の才能を惜しんで諫めたが、王允は、司馬遷を生かして後世に批判の書を残させた武帝の例を挙げ、国運が衰え戦乱が続く今、幼い君主のそばで筆を執らせられないと述べた。蔡邕は殺された。

誅殺卓者,尸王允於市。傕爲車騎將軍、池陽侯,領司隷校尉、假節。汜爲後將軍、美陽侯。稠爲右將軍、萬年侯。傕、汜、稠擅朝政。濟爲驃騎將軍、平陽侯,屯弘農。
日本語対訳

李傕らは董卓を殺した者を処刑し、王允の遺体を市場にさらした。李傕は車騎将軍・池陽侯となり、司隷校尉を兼ね、仮節を受けた。郭汜は後将軍・美陽侯、樊稠は右将軍・万年侯となり、三人が朝政をほしいままにした。張済は驃騎将軍・平陽侯となり、弘農に駐屯した。

先是,司徒王允以布州里壯健,厚接納之。後布詣允,陳卓幾見殺狀。時允與僕射士孫瑞密謀誅卓,是以告布使爲內應。布曰:「奈如父子何!」允曰:「君自姓呂,本非骨肉。今憂死不暇,何謂父子?」布遂許之,手刃刺卓。語在卓傳。
日本語対訳

これより前、司徒の王允は同じ州出身で勇壮な呂布を厚く迎えていた。呂布が王允を訪ね、董卓に殺されかけた事情を話すと、士孫瑞と董卓暗殺を密議していた王允は内応を求めた。呂布が父子同然の関係を気にすると、王允は、姓も異なり血縁ではなく、いま死を恐れているのに父子と言えるのかと説いた。呂布は承諾し、自ら董卓を刺した。

卓自以遇人無禮,恐人謀己,行止常以布自衞。然卓性剛而褊,忿不思難,嘗小失意,拔手戟擲布。布拳捷避之,爲卓顧謝,卓意亦解。由是陰怨卓。卓常使布守中閤,布與卓侍婢私通,恐事發覺,心不自安。
日本語対訳

董卓は人への扱いが無礼で、襲撃を恐れて常に呂布を護衛とした。しかし短気な董卓は、わずかに意に沿わないことがあると手戟を呂布へ投げつけた。呂布は素早く避けて謝り、董卓の怒りも解けたが、これを機にひそかに恨みを抱いた。また呂布は董卓の奥の門を守る間に侍女と密通し、発覚を恐れて心が安まらなかった。