192年 - 196年

董卓暗殺と後漢朝廷の流転

劉協りゅうきょう

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長安を脱出し洛陽・許へ移る後漢皇帝

後漢朝廷

後漢の献帝。董卓暗殺後も長安にあり、李傕・郭汜の内戦で軍営へ移された。張済の調停後に長安を脱出し、張楊らの支援で洛陽へ戻り、曹操の奉迎を受けて許へ移った

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原文

太祖將迎天子,諸將或疑,荀彧、程昱勸之,乃遣曹洪將兵西迎,衞將軍董承與袁術將萇奴拒險,洪不得進。
日本語対訳

曹操が天子を迎えようとすると、将たちの中には疑う者もいたが、荀彧と程昱が勧めた。そこで曹洪に兵を率いさせて西へ迎えに行かせたものの、衛将軍の董承と袁術の将・萇奴が険路を塞ぎ、曹洪は進めなかった。

洛陽殘破,董昭等勸太祖都許。九月,車駕出轘轅而東,以太祖爲大將軍,封武平侯。自天子西遷,朝廷日亂,至是宗廟社稷制度始立。
日本語対訳

洛陽は荒廃していたため、董昭らは曹操に許を都とするよう勧めた。九月、献帝一行は轘轅を出て東へ進み、曹操は大将軍となって武平侯に封じられた。天子が西へ移って以来、朝廷は乱れていたが、この時に宗廟・社稷と制度が初めて整えられた。

裴注之引用書・献帝起居注巻六 董卓伝・献帝の軍営移送
初,汜謀迎天子幸其營,夜有亡告傕者,傕使兄子暹將數千兵圍宮,以車三乘迎天子。楊彪曰:「自古帝王無在人臣家者。舉事當合天下心,諸君作此,非是也。」暹曰:「將軍計定矣。」於是天子一乘,貴人伏氏一乘,賈詡、左靈一乘,其餘皆步從。
日本語対訳

郭汜が天子を自分の軍営へ迎えようと計画すると、夜に逃げ出した者が李傕へ知らせた。李傕は兄の子である李暹に数千人を率いさせて宮殿を囲み、三台の車で天子を迎えさせた。楊彪は、帝王が臣下の家にいた例はなく、行動には天下の心を合わせるべきで、この処置は誤りだと諫めた。李暹は「将軍の計画は決まっている」と答えた。そこで天子が一台、伏貴人が一台、賈詡と左霊が一台の車に乗り、ほかの者は皆歩いて従った。

傕將楊奉與傕軍吏宋果等謀殺傕,事泄,遂將兵叛傕。傕衆叛,稍衰弱。張濟自陝和解之,天子乃得出,至新豐、霸陵間。
日本語対訳

李傕の将である楊奉は、李傕軍の官吏・宋果らと李傕を殺そうと計画した。計画が漏れると、楊奉は兵を率いて李傕に背いた。李傕の兵は離反し、勢力は次第に弱まった。張済が陝から来て李傕と郭汜を和解させたため、天子は長安を出て新豊・霸陵の間まで進むことができた。

先是,司徒王允以布州里壯健,厚接納之。後布詣允,陳卓幾見殺狀。時允與僕射士孫瑞密謀誅卓,是以告布使爲內應。布曰:「奈如父子何!」允曰:「君自姓呂,本非骨肉。今憂死不暇,何謂父子?」布遂許之,手刃刺卓。語在卓傳。
日本語対訳

これより前、司徒の王允は同じ州出身で勇壮な呂布を厚く迎えていた。呂布が王允を訪ね、董卓に殺されかけた事情を話すと、士孫瑞と董卓暗殺を密議していた王允は内応を求めた。呂布が父子同然の関係を気にすると、王允は、姓も異なり血縁ではなく、いま死を恐れているのに父子と言えるのかと説いた。呂布は承諾し、自ら董卓を刺した。

卓自以遇人無禮,恐人謀己,行止常以布自衞。然卓性剛而褊,忿不思難,嘗小失意,拔手戟擲布。布拳捷避之,爲卓顧謝,卓意亦解。由是陰怨卓。卓常使布守中閤,布與卓侍婢私通,恐事發覺,心不自安。
日本語対訳

董卓は人への扱いが無礼で、襲撃を恐れて常に呂布を護衛とした。しかし短気な董卓は、わずかに意に沿わないことがあると手戟を呂布へ投げつけた。呂布は素早く避けて謝り、董卓の怒りも解けたが、これを機にひそかに恨みを抱いた。また呂布は董卓の奥の門を守る間に侍女と密通し、発覚を恐れて心が安まらなかった。

天子之在河東,楊將兵至安邑,拜安國將軍,封晉陽侯。楊欲迎天子還洛,諸將不聽;楊還野王。建安元年,楊奉、董承、韓暹挾天子還舊京,糧乏。楊以糧迎道路,遂至洛陽。謂諸將曰:「天子當與天下共之,幸有公卿大臣,楊當捍外難,何事京都?」遂還野王。即拜為大司馬。
日本語対訳

献帝が河東にいた時、張楊は兵を率いて安邑へ行き、安国将軍となって晋陽侯に封じられた。張楊は献帝を洛陽へ迎えようとしたが、諸将が従わなかったため野王へ戻った。建安元年、楊奉・董承・韓暹が天子を旧都へ戻す途中で食糧に欠くと、張楊は道中へ食糧を届け、洛陽到着を支えた。張楊は、天子は天下の人々とともに戴くべきであり、都には公卿・大臣がいるため自分は外敵を防ぐと述べて野王へ戻り、大司馬となった。

太祖議奉迎都許,或以山東未平,韓暹、楊奉新將天子到洛陽,北連張楊,未可卒制。彧勸太祖曰:「昔晉文公納周襄王而諸侯景從,髙祖東伐爲義帝縞素而天下歸心。自天子播越,將軍首唱義兵,徒以山東擾亂,未能遠赴關右,然猶分遣將帥,蒙險通使,雖禦難于外,乃心無不在王室,是將軍匡天下之素志也。今車駕旋軫,東京榛蕪,義士有存本之思,百姓感舊而增哀。誠因此時,奉主上以從民望,大順也;秉至公以服雄傑,大略也;扶弘義以致英俊,大德也。天下雖有逆節,必不能爲累,明矣。韓暹、楊奉其敢爲害!若不時定,四方生心,後雖慮之,無及。」
日本語対訳

曹操が献帝を迎えて許を都とする案を議論すると、山東がまだ平定されず、韓暹と楊奉が天子を洛陽へ連れて来たばかりで張楊とも結んでいるため、すぐには制御できないという意見が出た。荀彧は、献帝を迎えることは民衆の望みに従う大順、天下の有力者を公正さで服させる大略、大義によって人材を集める大徳に当たり、韓暹や楊奉を恐れて機会を逃せば手遅れになると説いた。